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- 2023.11.12 Sunday
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ミス・サイゴンの東京公演も23日で千秋楽を迎えました。
結局10月は観劇に行けませんでした。
9月の観劇の後、残りの感想がそのままになっていたので、今更ちょっとUPしたいと思います。メモ程度に書き残しておいたものしかなく、かなり記憶が曖昧になっていますが・・・
ジョンについて
私は岸ジョンと岡ジョンの二人を観ましたが、ジョンはやっぱり岡さんだな、と思いました。
岸さんは好きなんですよ、やっぱり。演技も上手いし、歌声も好きだし。
クリスを本気で気にかけて、ブイドイを本当に助けたくて、キムの痛みを理解してる。人間として惚れそうだけど、そのせいなのかなんとなくジョンという人物になりきらない。
トークショーで岡さんも言ってましたが、ジョンは難しい役で、ベトナム帰国後にどういった心の変化があったのかとかそういったバックグラウンドは一切語られず、2幕では帰国後、別人になったかのようにブイドイの支援に尽力している。
この“ジョンの変化”を違和感を感じさせず、かつ変化のドラマチックさみたいなものを出さなければならないんだと思うんですが、岸ジョンは初めから人間が出来ているというかすごく優しい人間だな、ってのが滲み出ていて、2幕以降よりもむしろ1幕の浮ついたジョンに違和感がある。違和感というほどたいしたものでもないんだけれど、岸ジョンならこんなことはしないだろう、とかって思うわけ。
立ち姿も岡さんのが格好いい。というか見た目もジョン=岡のがしっくりくる。
一つ印象深いのは、エレンがキムと会ったと告げた時、岸さんはエレンに向かって「すまない」って言うけど、岡さんはクリスに向かって言ってたの。これは岸さんの解釈のが好きだな。やっぱり岸ジョンは優しい男です。
エンジニアについて
筧、橋本、別所さんの順で観劇。
橋本エンジニア、あーはまり役。
橋本さとしって役者はこーいう役が本当によく似合う。
でも筧さんのが個人的なエンジニアのイメージに近いかも。
この二人を観て、別所さんに思いを馳せていたわけです。
だってエンジニアって役と別所哲也って役者がどうしても結びつかなかったんですもの。期待半分、不安(?)半分で別所エンジニアを観劇。
別所さんならではの演技の細やかさ、そして歌がうまい。
席が遠かったのもあり、思っていたよりずっとよかった。
でも、違和感はどこかしらにずーとある。
筧さんや橋本さんのように「はまり役」というんでないことは確かなんだよね。
今年のミス・サイゴンはこれにて終了。
年明けからはお待ちかねの「レ・ミゼラブル」遠征です。
それまでに、ロンドンでみた本場レ・ミゼの感想もUPしていきたいな、と思ってます。
“謎の答えは、ここにある”と銘打った『もうひとつのMONSTER』。
これはある意味真実で、ある意味そうではない。
フランツ・ボナパルタの過去や実験の詳細、マンガではあまり明かされない天馬のバックグラウンドなどはよくわかるけれど、マンガのラストが明らかになるといった趣向のものではありません。
ただ、事件の内容が時系列的にまとめられていたり、チェコとドイツの複雑な歴史的背景が詳しく書かれていたり、より深く内容を理解できる1冊ではあると思います。
作者のヴェーバーが追う“もうひとつのモンスター”とは、ボナパルタの実験から生まれたもう一つの闇のお話。
確かにかなり大幅に実験を行っていたみたいだし、ヨハン以外の怪物が生まれたとしても不思議はないでしょう。
“ヘルマン・フィアー”というのがもう一人の怪物の名前(本名かどうかは不明)。
彼ははボナパルタの朗読会に参加し、最も優秀な生徒であり、ボナパルタの望むとおりの「絵本」をつくることができる人物でしたが、彼の中の「怪物」は長いこと眠ったままになっていました。
ボナパルタとペトル・チャペックという二人の怪物を恐れ、身を潜めていたようです。
その怪物を目覚めさせたのは、ヨハン。
「炎に包まれた赤い薔薇の屋敷から出てきた“彼”に出会って開放された」とヘルマンは語っています。
ヨハンをみただけでピンときたのかしらね・・・
結局のところ目覚めた怪物はヨハンと同じように生きたいと思っているようです。
これは先の思いやられること・・・
最終的にはウェルナーの部屋に、メモに書かれたヨハンに似た絵と新作の絵本『めざめるかいぶつ』を残してヘルマンは姿を消しています。作者のウェルナーもヘンマンの電話を受けた後同じく行方不明。
この“ヨハンに似た絵”が当時私を混乱させたんですが・・・
結局今回もよく分からず仕舞。
この絵を描いたのがヘンマンなのかウェルナーなのかも分からないんですよね。
当時の記憶をたどると、ヘルマンがヨハンに心酔して整形し、彼の顔を見たウェルナーが似顔絵を走り書きした(いわゆるダイイングメッセージ的な)とかなんだかもっといろいろ過激な説を思いついていたような気がしますが・・・
でもよく考えたら、ヘルマンがウェルナーの部屋に現われてから、似顔絵なんか書いてる暇はないでしょうしね。
現状の個人的見解ではその辺も含めて、ヘンマンのしわざだとは思っているんですが、これは自己顕示欲のたまもの・・・ってわけでもないと思うんですよ。
なんせ物静かな人物ですし、そういったタイプの殺人者ではないでしょうし。
ただヨハンも捜査の混乱を楽しむために多重人格ともとれるようなメッセージをのこしていたことを考えれば(混乱を狙ったかどうかはドクター・ギーレンの分析なだけで確証はありませんが)、ヘルマンが書いたにせよ、ウェルナーに書かせたにせよ、捜査のかく乱とそれを楽しむために残した、とも言えなくはないかな、とは思います。
もしくは、新作『めざめるかいぶつ』も一緒に現場に残していったことから、ヨハンへのメッセージかと思ったりも。
さて、この本で興味深かったのはヨハンの母親が双子だった(結局片方は死産)という点。
「MONSTER」の核に二組の双子がいたわけです。
ボナパルタのラブレターによると母親の名前は「アンナ」。
アンナを追う取材の中で彼女自身も自分を「アンナ」と名乗っていた節がある。
しかしプラハでルームメイトだったという女性が語ったヨハンの母親らしき人物の話では、それは死んだ双子の片方に母親がつけようとしていた名前で、本当の名前はヴィエラだと。
ヴィエラ(ないしはアンナ)の母親もまた双子のどちらかしか助からないと医者に宣告され、彼女は生まれる前に母親に“選ばれ”ています。にもかかわらず生まれてもいない妹といつも比べられ、その影を背負って生きてきたわけです。
その彼女が結局は自分の子供たちを選択しなければならない側になるとは皮肉な話です。といいつつ、ボナパルタは彼女がお腹の中では双子であったということで興味を抱いたようなので、それもボナパルタの計画のうちだったのかもしれませんが。
もうひとつ驚きだったのは、この『もうひとつのMONSTER」でボナパルタとヨハンの父親が異母兄弟だったんではないか、という可能性も示されていること。
ボナパルタと父親もなんというか空恐ろしい親子関係で。
自分と自分の母を捨てた父親へ憎悪を抱き、名前を奪い、人を破壊するというシステムを考案したボナパルタの最初の実験台は父親でした。もし異母兄弟説が本当なら、ボナパルタは兄弟の母親に恋していたようなので、父親に対する憎悪の中には、自分が好きになった女性を父親に取られたということに対する憎しみも含まれていたんではないでしょうか。
でもそう考えると非人道的で無感情な計画を生み出す発端が「憎悪」とはあまりにも人間味にあふれた動機だな、と感じてしまいます。
ヨハンとアンナ、アンナとヴィエラ、そしてその母。
ボナパルタとその父。
とても根が深い。
人間は誰でも怪物になり得る、ということでしょうか。
本編のマンガ『MONSTER』の1巻にはこういう問いが書かれています。
「What is justice and what is evil? This is a question to you.」
(何が善で何が悪か?・・・・これはあなたへの質問です)
これこそが物語全体を通しても問い続けられていることなのかな、と。
この問いに答えるのは至難の業であると同時にそれを見極めるボーダーを失った人間は恐ろしいということ。
どこまで行っても実に恐ろしきは生きている人間ですね。
友人から、最近『MONSTER』を(初めて!)読んだがラスト意味がわからないと言われました。
リアルタイムでコミック、そしてその後出版になった『ANOTER MONSTER』も読んだ私ですが、既に何年も前のことなので覚えている様で(場面によっては覚えてますが)意外に自分がその時思ったこととか登場人物とかあやふやになっていることに気づきました。
今思えば『ANOTER MONSTER』を読んだせいでラストの意味がわからなくなったような記憶があります。コミック読んだ後で解釈していたことが違う方向に持っていかれたような。
でも現状手元にはコミックしかないので、『ANOTER MONSTER』は一旦忘れます。
『MONSTER』を読み始めたとき、私はまだ中学生だったんですが、とにかく“恐ろしい話”だと思いました。
単に殺人が起きるからということではなく、『命の平等、不平等』とか『人間とMONSTERの境目』とか『究極の恐怖』とかそういった漠然としたものが『MONSTER』では淡々と描かれ続けるので。
天馬とヨハンという人物の関係も凄く興味深い。一見、善と悪の対決のようにも見えるこの二人は、ご存知の通りもちろんそんなに単純なものではないわけで。
天馬にとって“ヨハン”という人物は矛盾そのもの。自分の意思で命を救った少年が実は多くの命を奪う怪物だった。それをよみがえらせてしまったという責務と瀕死の人間を救うという当たり前の正義。その狭間で葛藤しながらヨハンを追います。もしかしたら、天馬は自分が救ったのは怪物ではなく人間だったということを確認したかったのかも。それを見極めたいが為にひたすらにヨハンを追いかけていたんではないかと。
一方、ヨハンにとって天馬は一種父のような存在ではなかったか。
自分の生き方を決めた男、フランツ・ボナパルタもまた脳外科医でした。
そして名前のない怪物である彼を認識し、絶えることなく追い続ける天馬にヨハンは執着していたように思います。
もし天馬が「もう追いかけるのや〜めた!」って言ったら(それじゃ物語が成り立たないけど・笑)ヨハンはあの手この手をつかって天馬を刺激しようとするんじゃないかな。
生まれながらにして特殊な環境だったヨハンとアンナ(仮名)。二人は幼い頃、実の母親から「命の選択とその不平等」を味わうことに。子供をつれに来たペトル・チャペックに差し出されたのはアンナの方だったとはいえ、その選択の意味がヨハンには最後まで分からないのだから。
そして問題のラスト。
まず、単純なのはヨハンは逃げて、振り出しに戻ったことを示唆している、ということ。
救われない解釈ですねぇ。まあヨハンを殺さなかったことでテンマが人間でいられた、ということではありますが。
つぎに、ヨハンは本当の名前を取り戻し、ある意味では生まれ変わった。
ヴォルフにヨハンと名付けられたことが、“名前のない怪物”としてのヨハンが出来上がるきっかけになったように。
結果行方をくらましたわけだけど、もしかしたら母親に会いにいったのかもしれない。
“その怪物を倒せるのはそれ以上の怪物だけ”という作中の言葉。
ならば怪物であるヨハンを消しされるのは本当の怪物、“母親”だけなのでは。
消えた、ということ自体がモンスターの消滅を意味しているとこじつけることもできるかも。
私は読後に後者の解釈をしていたんですが、小説『ANOTER MONSTER』を読んで「うん?」って思った覚えがあるのですよ・・・定かじゃないけど。
誰に小説を貸したかも忘れてしまったので・・・また買ってきます。
考えれば考えるほど恐ろしいこの漫画『MONSTER』。
個人的には浦沢直樹の最高傑作ではないかと思っています。
ラストについては、全てを白日の下にと言う感じで書ききって欲しかったという思いもありますが、そうではないこのラストの方が『MONSTER』には相応しかったのかもしれないとも思う。
とにかく面白いのよ、この漫画。
ってそういえばレ・ミゼの感想の中でも『MONSTER』宣伝したことあったな(笑)
どんだけ好きなんだ、私。